「 武  丸  の  正  助 」

「武丸の正助」の経歴と文献

・寛文11年(1671) 正助、宗像武丸()地上(ぢかみ)葉師上(はじかみ))で誕生、1歳。

           正助の父・正三郎は田畠無くその日暮らしだったので、母と正助が他家へ

奉公。 妹は紺屋の右衛門に嫁ぎ、妹夫婦の子・惣一が正助の養子となり、

源内と改名。

 ・元禄4年(1691) 正助21歳の時奉公先を辞し、父母3人で暮らし、間もなく畑2反を買う。

           父母にあまたの孝行を尽くす。

 ・宝永7年(1710) 正助40歳、(こおり)奉行(ぶぎょう)から(くら)(まい)(年貢)12俵、田17(たまわ)る。

           同年、福岡藩主(黒田)が田を与えようとしたが、正助辞退す。

 ・正徳(しょうとく)元年(1711)正助41歳、父77歳で没す。

 ・享保(きょうほう)2年(1712) 正助47歳、幕府巡見(じゅんけん)上使妻木平四郎、正助を赤間宿に召出し、酒菓を与

える。 母は青銅(銭)を賜る。

 ・享保14年(1729)正助59歳、藩主から城に召出され、所有田38畝の税を免じられる。

母は米10俵を賜る。

    〃    「筑前國宗像郡武丸正助伝」を福岡藩儒学者(江戸幕府の官学)竹田定直(さだなお)が作

り翌年上梓(じょうし)(出版)

 ・享保19年(1734)母86歳で没す。

 ・宝暦7年 (1757)正助87歳で没す。

  寛政元年 (1789)徳川幕府が「孝行義録」50巻編集。正助伝が最も長かった。

  文化3年 (1806)山崎青山 「正助略伝」

  安政3年 (1856)井上周盤 「孝子正助伝」

  安政5年 (1858)浄土真宗西本願寺編集「妙好人伝」等、(いとま)がない程出版。

   昭和58年(1983)今回問い合わせの「橘曙覧(たちばなあけみ)全歌集」初版。孝子荘助とある。

橘曙覧(たちばなあけみ)(文化9年~慶応4年(18121868)、越前(福井)、幕末の歌人、

国学者(日本古典の研究)」。

*(①②③④⑤⑥は文献。 参考文献:「宗像市史・通史」、「宗像郡誌」、「橘曙覧全歌集」等) 

「正助」と「荘助」の文字について

・「正助」と毛筆で書かれた古い文献は、「宗像町史・通史編第二巻」882P61に「正助子孫

 への開田地永代作取証文・天明元年(1781)」と「田畠免租申渡状」で見る事が出来る。

・「正」と「荘(旧字体は莊)」は共に「しょう」と読む事が出来る。

・橘曙覧が「孝子荘助」を知ったのは、②の徳川幕府編集の「孝行義録」か、又は、西本願寺

派の寺院が越前にもあり、橘曙覧が亡くなる10年程前に編集された⑤の「妙孝人伝」かも

しれない。

江戸時代は、木に文字や絵を刻り印刷した製版印刷であった。

②,⑤の原本が「正助」か「荘助」か、製版時の彫違いがあったのかもしれないし、橘曙覧

全歌集出版時に「荘助」となったのかもしれない。

 

( 2023326  福津郷土史会 大賀康子 © )